• 第479話『天地の理を知る』-【群馬県にまつわるレジェンド篇】キリスト教思想家 内村鑑三-
    Nov 2 2024
    明治時代、欧米化の波にのまれそうになる日本人に、いかに生きるべきかを示した思想家のレジェンドがいます。
    内村鑑三(うちむら・かんぞう)。
    その名は聞いたことがあっても、いったい何をした人なのか、どんな思想を持っていたのか、明確に答えられる人は、案外、少ないのかもしれません。
    それもそのはず、内村の生き方、思想は、混乱、混迷の連続。
    札幌農学校時代に、キリスト教の洗礼を受けますが、アメリカに留学した際、キリスト教の在り方に疑問を持ち、反感を買う。
    愛国心が人一倍ありながら、教育勅語の前で最敬礼をしなかったことが、社会的な大事件に発展。
    どこにいても敵をつくり、どんな組織に入っても周りと齟齬(そご)を深め、退職、辞任、解雇。
    転がる石のごとく、流され、ぶつかり、ひとつの場所に留まることができない、70年あまりの生涯でした。
    群馬県の高崎藩士の息子として生まれた彼は、少年時代の一時を高崎で過ごします。
    自然豊かな森や山、そして川。
    特に渓流に足をつけ、川魚を見るのが好きでした。
    素早く動く、美しい魚たち。
    ある法則性がありそうで、自由で、シンプル。
    内村少年は、そこで初めて、命がどこから来て、どこへ去っていくのか、想いを巡らせます。
    数々の試練を経て、彼が思い至った結論は、「天地の理(ことわり)」と共に生きるということ。
    ひとは、自分の価値観で生きる。
    しかし、ともすれば自らの価値観にがんじがらめになって、身動きがとれなくなる。
    そんなとき、視点をふわっと宙に放ち、天に預ける。
    人間には誰しも、天が定めた仕事がある。
    それを全うすること。
    それこそ、命をいただいたことに対する恩返しではないか。
    内村は、その考えを、二つのJから学んだのです。
    ひとつが、ジーザス、キリストのJ。
    もうひとつが、JAPAN、ニッポンのJ。
    批判、非難、誹謗中傷の嵐の中、天命を全うした賢人、内村鑑三が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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    11 mins
  • 第478話『自分にyesと言える生き方を選ぶ』-【日本武道館にまつわるレジェンド篇】ロック・バンド ザ・ビートルズ-
    Oct 26 2024
    1966年6月30日から7月2日までの3日間、日本武道館で初めてロックのコンサートを開催した、伝説のアーティストがいます。
    ザ・ビートルズ。
    生で演奏する彼らを見ることができた、最初で最後の公演。
    実現に至るまで、多くの苦難がありました。
    神聖な武道を行うための場所で、キャーキャーと黄色い声が飛び交うコンサートなど、ありえない。
    日本武道館初代会長の正力松太郎(しょうりき・まつたろう)は、「ペートルスとかなんとかいうやつに、武道館は使わせない!」と豪語したと言われています。
    今でこそ、若いアーティストの憧れの演奏場所であり、ポップ・ミュージックのコンサートが頻繁に開催されていますが、当時は、一度クラシックのコンサートが開かれたくらいで、柔道や剣道、公的な行事以外の使用はほとんどありませんでした。
    しかし主催者側は、世界を席巻していたイギリスのロック・バンドの日本公演は、この国を象徴する会場で行いたいと必死だったのです。
    正力会長はなんとか説得できたものの、ビートルズの武道館公演に反対する勢力は激化していきます。
    街宣車に、脅迫電話。
    大規模な警備体制が求められ、1万人の観客に対し、配備された警察官は3000人。
    観客が近づけないように、アリーナ席は撤去。
    厳戒態勢の中、彼ら4人は、日航機のタラップを降りました。
    こうしておよそ100時間の彼らの滞在時間がスタートしたのです。
    ビートルズは、この年の8月にコンサート活動をいっさいやらないことを決めます。
    彼らは、表現の場をレコードに移し、破格の挑戦を続けるのです。
    1962年にデビュー、そして1970年に解散。
    わずか8年あまりの活動で、今なお世界中の人々を魅了する、ロック・バンドのレジェンド、ザ・ビートルズが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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    11 mins
  • 第477話『己の美学を貫く』-【日本武道館にまつわるレジェンド篇】建築家 山田守-
    Oct 19 2024
    日本武道館の設計を任された、建築界のレジェンドがいます。
    山田守(やまだ・まもる)。
    1964年に開催された東京オリンピックの、柔道会場として建設された日本武道館。
    皇居北の丸の北部、およそ1万平方メートル、延面積2万8千平方メートル、収容観客数、およそ1万人。
    当時の金額で、総工費20億円。
    日本の伝統、お家芸を世界中に知らしめる、壮大なプロジェクトでしたが、設計コンペが行われたのは、前年の夏のことでした。
    早急な図面づくりに、短い工期。
    指名されたにもかかわらず、コンペを辞退する設計士もいました。
    そんな中、山田は、コンペに参加し、勝ち抜いたのです。

    彼の構想には、明確な二つのモチーフがありました。
    ひとつは、聖徳太子が祀られていると言われる、法隆寺夢殿。
    八角形は、古代中国からの風水に習うもの。
    「8」は、仏陀誕生の日付であり、聖なる数字として大切にされてきました。
    さらに限りなく円に近いフォルムの美しさを、山田は好んでいたのです。
    彼がイメージしたもうひとつのモチーフ。
    それは、富士山。
    彼は富士山の裾野の曲線を、最高の「美」と捉えていました。
    スタッフの前で、製図版に向き合う、山田。
    彼は数値でも定規でもなく、フリーハンドで曲線を描きました。
    何度も何度も、自分がこれだと思う曲線が画けるまで、やりなおす。
    やがて、納得できる曲線が引けたとき、ようやく数値を計算。
    図面が形になっていくのです。
    しかし、翌朝、その図面を見ると、やっぱり何かが違うと、また、曲線を描く、山田。
    彼のお手本は、あくまでも、富士山の美しい裾野の曲線だったのです。
    法隆寺夢殿と、富士山。
    その二つを具現化した世界に誇る建築物、日本武道館を設計した山田守が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第476話『信じることをやめない』-【日本武道館にまつわるレジェンド篇】歌手 オリビア・ニュートン・ジョン-
    Oct 12 2024
    1976年12月1日、日本武道館で、女性ソロ・アーティストとして初の単独公演を行った、レジェンドがいます。
    オリビア・ニュートン・ジョン。
    ささやくように歌い始めた『Love Song』という楽曲が、武道館の会場内に沁みわたっていきます。
    およそ1万人のファンが待ち望んだ来日公演。
    美しく、知的で、笑顔を絶やさない、ブロンドヘアーの歌姫に、魅了されました。
    ラストには大ヒット曲『I Honestly Love You』、邦題『愛の告白』を熱唱。
    この曲でオリビアは、前年の3月、第17回グラミー賞を受賞しました。
    プレゼンターは、ポール・サイモン、そしてもうひとりは、ジョン・レノン。
    ツアー中で不在だったオリビアの代わりにトロフィーを受け取ったのは、アート・ガーファンクルでした。
    このとき、オリビア・ニュートン・ジョン、27歳。
    名実ともに、アーティストとしての絶頂期を迎えていました。
    この後、『そよ風の誘惑』や『ジョリーン』など、ヒット曲を連発します。
    1978年には、女優デビュー。
    映画『グリース』でジョン・トラボルタと共演し、興行成績も大成功を収めました。
    家族にも恵まれ、順風満帆だった彼女でしたが、1992年、44歳のときに病魔が襲いかかります。
    乳がん。
    その後、73歳で亡くなるまで、闘病生活は続きました。
    彼女は自身もがんと闘いながら、オーストラリア・メルボルンに「オリビア・ニュートン・ジョンがん健康研究センター」を設立。
    多くの患者のために、奔走したのです。
    どんな苦難が押し寄せても、彼女は前を見て、笑顔を忘れませんでした。
    シンコーミュージック・エンタテイメント発行、中川泉 訳『オリビア・ニュートン・ジョン自伝』の副題は、こうです。
    Don't Stop Believin' 信じることをやめないで。
    今も聴くひとの心をなぐさめる、唯一無二のシンガー、オリビア・ニュートン・ジョンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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    12 mins
  • 第475話『不可能は先入観にすぎない』-【日本武道館にまつわるレジェンド篇】ボクサー モハメド・アリ-
    Oct 5 2024
    1976年6月26日、日本武道館は、およそ1万人の観客の熱気に包まれていました。
    伝説の「格闘技世界一決定戦」。
    映像は世界に配信され、10億人を超える人たちが、試合開始のゴングを待っています。
    アントニオ猪木の対戦相手は、世界ヘビー級チャンピオンでした。
    伝説のボクサー、モハメド・アリ。
    当時、アリは34歳。2年前にタイトルを奪還したばかりです。
    1974年10月30日、ザイール王国の首都キンシャサで行われた、WBC世界ヘビー級タイトルマッチ。
    王者ジョージ・フォアマンは上り調子の25歳。
    かなりのハードパンチャー。
    ロンドンのブックメーカーでは、11対5でフォアマン勝利、でした。
    誰もがマットに倒れこむアリを予感し、引退する彼を想像していたのです。
    新聞はこぞって、アリが勝つのは不可能だと書きました。
    しかし結果は、第8ラウンド2分58秒で、アリがまさかのKO勝ち。王座を奪い返したのです。
    世に言う『キンシャサの奇跡』。
    試合後のインタビューでアリは、カメラに向かって豪語します。
    「オレを疑った批評家たち! 見たか! オレこそが、世界一、史上最高なんだ! わかったか!」
    アリは、なぜか、「絶対無理」「不可能」という言葉に、敏感に反応しました。
    彼はこう言います。
    「不可能は、可能性なんだ。いいか、不可能っていうのは、自分の力で世界を切り開くことを放棄した、臆病者の言葉だ!」
    キンシャサの後、いくつかの防衛戦を制し、降り立った日本の地、日本武道館。
    アントニオ猪木との試合は、アリ側が決めたルールにより、プロレスの技をほとんど使えない猪木が、終始、マットに寝ころんでキックを繰り出す状態が続きました。
    試合は最終ラウンドまでビッグファイトもなく、結果、ドロー。
    消化不良を起こした会場のファン、そして全世界の視聴者から非難の言葉があびせられます。
    しかしアリの踊るようなステップは、日本人の目に焼き付きました。
    ベトナム戦争への徴兵拒否や、数々の暴言でバッシングの嵐の中にあっても、彼は生涯「闘う姿勢」を崩しませんでした。
    アリの激しい闘争心は、どこから来るのでしょうか。
    バラク・オバマが敬愛し、エミネムが影響を受けた世界チャンピオン、モハメド・アリが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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    13 mins
  • 第474話『継続することの大切さを知る』-【千葉県にまつわるレジェンド篇】教育家 津田梅子-
    Sep 28 2024
    今年20年ぶりに発行された新紙幣、その五千円札の顔になった、日本女子教育の先駆者がいます。
    津田梅子(つだ・うめこ)。
    まだ女性の教育が『良妻賢母』のためだけだった時代に、留学のための「日本婦人米国奨学金」を創設したり、女子英学塾、のちの津田塾大学を設立するなど、梅子は、女性の社会進出を推進するさまざまな取り組みに一生を捧げました。
    彼女の父、津田仙(つだ・せん)は、下総国佐倉藩、現在の千葉県佐倉市に生まれ、日本の近代農業の発展に尽力しました。
    さらに福沢諭吉らと共に、アメリカに留学。
    欧米の文化にも精通した知識人でした。
    しかし、そんな先進的な津田仙であっても、姉の琴子(ことこ)に次いで梅子が生まれたとき、こう言い放ったのです。
    「なんだ、また、女が生まれたのか、今度は男だと思っておったのに、後継ぎにもなりはしない。
    つまらん! もう、どうでもいい!」
    梅子が生まれた1864年は、明治政府ができる4年前。
    封建制度は厳しく女性を縛り、どう生きるかより、どんな男性と結婚するかが重要だと、親に諭される時代でした。
    梅子の父も御多分にもれず、梅子の幸せは結婚にあると思いつつ、ただ、他の父親とは違う助言をしました。
    「私は20歳で留学したので、英語を習うのにとても苦労したんだ。
    語学をやるのはもっともっと若いうちがいい」
    そうして、梅子は若干6歳で、岩倉使節団に応募。
    アメリカに留学することになったのです。
    この決断が、彼女の後の人生を決定づけたのは間違いありませんが、梅子の凄さは、苦難にめげない持続力でした。
    当時、英語ができるだけでは、職は限られ、なかなか就職のあてがない状況。
    それでも女子教育の場を造りたいと決めた彼女は、文字通り東奔西走し、何度失敗しても意志を曲げなかったのです。
    女性の地位向上に邁進したレジェンド、津田梅子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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    13 mins
  • 第473話『直観を信じる』-【千葉県にまつわるレジェンド篇】思想家・哲学者 柳宗悦-
    Sep 21 2024
    日々の暮らしに欠かせない日用品にこそ「美しさ」があると唱え、無名の職人の仕事に価値を見出したレジェンドがいます。
    柳宗悦(やなぎ・むねよし)。
    民衆的工藝、すなわち、「民藝」。
    その父と言われる彼の思想は、多くのひとに受け継がれ、今、さらに注目を集めています。
    『民藝 MINGEI―美は暮らしのなかにある』という展覧会は、今年4月の世田谷美術館を皮切りに、現在は、富山美術館、そのあと、名古屋、福岡と、全国を縦断して開催されます。
    「衣・食・住」をテーマに展示された美しい品々。
    この展覧会の素晴らしさは、その民藝を産み出した産地、作り手も紹介しているところ。
    それこそ、柳が大切にしたことでした。
    彼は、今から100年以上前に、日本各地の伝統芸能や伝統文化が廃れて行くのではないかという不安を抱き、あらためて、土地に根差した工芸を守ろうとしたのです。
    柳は、25歳で結婚すると、すぐに千葉県の我孫子に引っ越し、およそ7年半を過ごします。
    親戚だった柔道の大家・嘉納治五郎の別荘があった場所でした。
    声楽家の妻は、夫のいっときの気の迷いだと思いますが、柳に迷いはありません。
    この場所こそ、自分を生かす土地だと、『直観』が働いたのです。
    直観のカンは、観る。経験や記憶をふまえた心の判断。
    その直観は、あらゆる絆を引き寄せます。
    志賀直哉、武者小路実篤、そして生涯の親友となる、バーナード・リーチ。
    我孫子は、白樺派の拠点になり、民藝の総本山として君臨するのです。
    当時、我孫子は、東の鎌倉と言われるほどの景勝地。
    眼下に手賀沼を見下ろす風光明媚な自然は、作家たちの創作意欲をかきたて、柳も、日々の暮らしを見つめる機会を授けられました。
    東京の一等地、麻布に生まれ、学習院から東京帝国大学へ進み、何不自由ない生活の中にあった柳が、なぜ、我孫子に移住したのか、そこには、彼が終生、大事にした、直観という名の啓示があったのです。
    日本の近代美術に一石を投じた賢人・柳宗悦が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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    12 mins
  • 第472話『己の後悔と向き合う』-【千葉県にまつわるレジェンド篇】芸術家 高村光太郎-
    Sep 14 2024
    「僕の前に道はない
     僕の後ろに道は出来る
     ああ、自然よ
     父よ
     僕を一人立ちにさせた広大な父よ
     僕から目を離さないで守る事をせよ」
    という有名な書き出しで知られる『道程(どうてい)』。
    この詩を書いた、レジェンドがいます。
    高村光太郎(たかむら・こうたろう)。
    高村光雲(たかむら・こううん)という高名な彫刻家の長男として生まれた彼は、当然のことのように彫刻の道に進みますが、一方で、いつも父親の存在に悩みます。
    どちらかというと分業制をとり、職人肌だった父に対抗するかのように、文学や絵画にのめりこみ、職人というより、芸術家として独り立ちしたいという欲求に駆られました。
    絶えず、父とは違うアイデンティティを探す日々。
    そうして辿り着いたのが、詩を書くという行為でした。
    いかに人の魂を揺さぶる作品を創るか、ということに心を砕いた74年の生涯の中で、高村光太郎は、二度の大きな後悔を経験します。
    ひとは、後悔をせずには生きられないのかもしれません。
    そして、その後悔をどう心の中に収めるかが、その後の人生を左右するのでしょう。
    光太郎の一つ目の後悔は、妻、智恵子を早くに亡くしてしまったこと。
    千葉県の九十九里で、心と体を病んだ智恵子を懸命に看病しますが、その甲斐もなく、妻は、彼が56歳のとき、亡くなります。
    「夫が僕のような芸術家ではなく、芸術を解する一般のひとだったり、あるいは全く無関係のひとだったりすれば、君は心を壊さずに済んだのかもしれない」と激しく自分を責めます。
    もうひとつの後悔は、太平洋戦争に際して、戦意高揚のための戦争詩を多く書いてしまったこと。
    戦後、彼はそんな自分を罰するかのように、7年もの間、岩手県花巻の山奥にひとり、引きこもります。
    今なお彼の作品が私たちの心をうつのは、自らの後悔から目をそむけず、真正面から対峙した姿勢にあるのかもしれません。
    戦前から戦後を生き抜いた芸術家・高村光太郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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    13 mins