田舎坊主の読み聞かせ法話  By  cover art

田舎坊主の読み聞かせ法話

By: 田舎坊主 森田良恒
  • Summary

  • 田舎坊主の読み聞かせ法話 田舎坊主が今まで出版した本の読み聞かせです 和歌山県紀の川市に住む、とある田舎坊主がお届けする独り言ー もしこれがあなたの心に届けば、そこではじめて「法話」となるのかもしれません。 人には何が大事か、そして生きることの幸せを考えてみませんか。
    田舎坊主 森田良恒
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Episodes
  • 田舎坊主の七転八倒<お経テープの使い方>
    Jul 18 2024

    法事で「仏前勤行次第」を差し上げるようになってからしばらくしてのことです。

    ある檀家さんから、「お経のリズムや息を継ぐ場所がわからんので、テープに録音したのがほしいんだが・・・・」と言われました。

    お経は確かにリズムや区切る場所など決められたものもありますが、ほとんどの場合あまり気にせず自分の唱えやすいように唱えればいいと私は思っています。

    なかには耳なれたフレーズがお経の唱えやすさ、覚えやすさにつながっている場合もあります。

    それはそれでとてもいいことで、意味や内容を考慮しなくても充分功徳があると思うのです。


    ある研究者がお経を唱えている人の脳波を調べ、果たして人間にどういう影響を与えるのか研究したことがあるという話を聞いたことがあります。

    一方は、経典を広げ、字を目で追い、お経の意味や内容などを考えながらお唱えするのです。

    もう一方は、ただ無心にお唱えするだけです。

    この実験におけるサンプル数は定かではありませんが、相当数の実験が重ねられたそうです。

    その結果、お経の意味や内容などを考えながらお唱えする方より、ただ無心にお唱えするだけの方がはるかにアルファー波が高く出現するのだそうです。

    言いかえれば、何も知らないで唱えている方がリラックス効果が高く、心の平安が保たれているということでした。

    お経の意味や内容などを考えるということは、ある種の雑念で満たされているということなのでしょうか。

    もちろん意味を理解しお経の意義を考えることは重要なことでしょう。

    さらにはそのことをわかったうえで無心にお唱えすることができれば、もちろんそれに越したことはありません。


    さて、仏前勤行次第だけでは唱え方が分からないと、お経を吹き込んだ録音テープがほしいという檀家さんですが、テープを差し上げてしばらくたっても一向に上手くなりません。

    それもそのはずです。カセットレコーダーを仏壇の前に置いてテープをエンドレスでかけたまま、ご自分は農作業に出て行かれるんですから・・・。上手くなるはずがないです、それでは・・・。


    こんなこともありました。

    ある共同墓地にお参りをしたときのことです。

    ある地区の町内会の人たちが、一つの墓を中心にして、お経をあげていました。

    この地区では、法事をする当家が町内会に粗供養として、金一封を寄付する習慣があるのですが、そのお返しとして、町内会の人たちがお墓参りをしていたのです。

    私は他の家の墓参りを終えたあと、少し立ち止まってその人たちがあげるお経の声を聞いていると、とても低い声で、ゆっくりと唱えているのです。よく見ると、みんなが囲んでいる墓石の上にはカセットレコーダーが置かれ、私が吹き込んだと思われるテープの声にあわせて唱えていたのです。

    おつとめが終わったあと、みんなに、「えらい、ゆっくりお唱えしてたねぇ」というと、そのテープの持ち主と思われる人が返答しました。

    「うん、電池がきれかけてんねん」

    お経の録音テープもたくさんの方に差し上げてきましたが、こんな使い方ははじめてでした。


    もちろんしっかりテープを聴いて、お経に慣れて上手に唱えられる方もいます。おかげで最近では法事のときにご一緒にお唱えしても、坊主よりも上手に、お唱えされる方も出てきました。

    でもそこまで上手になられると、本職の私が困りますねん。

    合掌

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    8 mins
  • 田舎坊主の七転八倒<名付けて不自由に>
    Jul 11 2024

    この地方では四十九日満中陰の法事の際、四十九個の小餅と鏡餅のような丸い餅一枚でつくった「笠餅(かさもち)」とよばれるものを、弘法大師のご修行姿に似せた人型に切る風習があります。四十九個は人間の骨の数、鏡餅は骨を覆う皮と肉と言い伝えられていて、亡きがら全てを埋葬する土葬習慣のあったところでは、分骨や忌み分けの意味を持っているのです。そして、この笠餅のなかの鏡餅を、杖をもち笠をかぶった弘法大師の修行姿に切り分けます。体の部分を持ち帰って食べると、その箇所の病が治るのだと信じられているのです。足が悪い人は足を、手が悪い人は手をもって帰るということになるのですが、現世利益とはいいながら、まことに信じがたいお話です。

    実を言うと、私は一度もこれを切ったことがありません。というのも、もし足の悪い人ばかりお参りに来たら、どうするのでしょう。お大師さんの足は二本だけなのです。親戚同士で取り合いになったり、自分がほしかったのに誰かさんに持って行かれたなどといやな思いをすることになるとしたら、法事に来て故人の冥福を祈り、しばらくは心穏やかに過ごすことができると思っている人にとっては、それは本末転倒ではないでしょうか。

    そうならないために私はいつも次のようにお話しします。「笠餅はお大師さんの人形には切らず、来られた方の数に適当に切り分けて下さい。そしてそれぞれいただいたものをご自身の悪い部分と思い、たとえば足と思い、手と思って持って帰ってください。お大師さんの修行姿に切れば足は二本しかないので二人しか救われませんが、自分が手にしたものを手と思い足と思えば、みんなが満たされ救われるじゃないですか。これがほんとうの満足というんですよ」と。

    でも最近、私が切らないことを知ってか知らずか、笠餅の切り方が書かれたものをコピーして餅屋さんがサービスでつけてくれるそうです。昔は、「餅屋は餅屋」とその仕上げの立派さを褒めて言ったものですが、こんなサービスをされては、「餅屋も餅屋だ」と言いたくなります。

    私たちはものに名前をつけることによって、整理され便利にもなりますが、反対に名付けることによって不自由にもなっているんです。たとえば、最近ホームセンターなどでも売られている「ぞうきん」が、家で台所の「ふきん」になることはまずありません。「ぞうきん」という名前によって、床を拭いたりする、いわゆる下用の利用に限定されるからです。逆に「ふきん」が下用に使われることはないでしょう。でもホームセンターに陳列されている「ふきん」も「ぞうきん」も、どちらもきれいな布です。だとしたら、ただの白布を買ってくれば「ふきん」にも「ぞうきん」にもなることができるのです。

    言い換えれば、名付けなければ自由で融通が利くということではないでしょうか。すべてに仏の精神が宿っていることを仏教では「悉有仏性(しつうぶっしょう)」といいます。餅の一部に名前をつけて、そのものしか価値がないように思わせるようなことがあってはならないと思うのです。手や足という価値をご自身でつけ、そう観念する方が自由でいいじゃないですか。

    私は、執着することやこだわることから心を解放することが苦を「ほどく」ことであり、「ほどく」から「ほとけ」が生まれたとも教えられました。法事において名前に縛られるようなことがあっては、本来の仏の教えに合わないように思うのです。

    合掌

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    8 mins
  • 田舎坊主の七転八倒<それほど形を整えても>
    Jul 4 2024
    仏事は荘厳(しょうごん)が大切です。荘厳というのはお飾りのことです。仏壇のお祀りの仕方などはよく聞かれることですが、なかでも多いのは、荘厳について置き場所などです。 本来、仏壇にはご本尊が安置されますが、荘厳はこのご本尊のためのものでもあります。真言宗の仏壇は、どちらかといえば質素で控えめなものが多くあまり派手ではありません。 仏壇本体の材質は紫檀や黒檀などが中心で、ケヤキや桜など多種に及びます。最近では圧縮材や合成材なども使われることも多く値段もかなりの差があるようです。仏壇のなかには上部に須弥壇(しゅみだん)というご本尊の置き場所があります。 ここには真言宗のご本尊大日如来を中心にして、向かって右に弘法大師、向かって左に不動明王が置かれます。これはそれぞれのお姿を描いた掛け軸だけの場合もあります。 須弥壇の前には幡(ばん)という布で作った幡(はた)や瓔珞(ようらく)とよばれる飾り金具や電球入りの灯籠などが仏壇の天井からつり下げられます。須弥壇の足下には高杯(こうはい:たかつきのこと)が左右一対置かれ、果物やお菓子などが供えられます。 下の段にいくと、お仏飯やお茶湯を置く台と五具足(ごぐそく:ローソク立て一対、花立て一対、香炉一つ)や三具足(みつぐそく:ローソク立て、花立て、香炉)という荘厳が置かれます。そのほかにも過去帳台や経机、おりんなどがあります。通常は下の段にいくまでの中段あたりに、仏壇の大きさによって違いますが一段から二段を利用して、ご先祖のお位牌が置かれています。ただこれはあくまでも便宜上置かせてもらっているだけで、正式な置き場所というわけではありません。 余談ですが、私がいつもこの話をすると仏壇屋さんから「それだけは言わないでください。売れ行きが悪くなるんです」と、釘を刺されてしまいます。 ちなみにこの田舎寺の檀家さんのなかには、かつては茅葺きの旧家があり、そのお宅のなかには今でも昔ながらの祀り方をしている家があります。現在では屋根は瓦葺きに代わったものの座敷などはそのままで、今も上座敷には一段高い上段の間があります。その上段の間には備え付けの仏壇があり、そこにご本尊を安置しているのです。 ご先祖のお位牌はどこにあるかというとご本尊を正面にして、下の間の右側に小さな位牌置き場の段があります。この旧家には数十体のお位牌があり、このお位牌たちはご本尊に向かうように少し斜めに置かれています。 これはとりもなおさず、私たちが亡くなって仏になるとはいいながら、決して弘法大師やましてや大日如来や不動明王になるわけではないからです。ですから、ご本尊と同じ場所に祀られることはあまりにももったいなく、失礼であるという意味から下の間の別の場所に祀られ、そこからご本尊を拝めるようにつくられたのです。 このように、本来仏壇はご本尊だけをお祀りするものだったのです。もともと祀られる場所がない仏壇のなかの位牌の置き場所について、先祖代々の位牌や新仏の位牌の場所はどこがいいのか、よく聞かれ、正直、困りものです。ですから私は「あまり決まりはないので、適当なところに置かれたらいいですよ。まあ新しいご先祖でしたら正面において丁寧にお祀りになったらどうですか」と、話すことにしています。 しかし、どこで聞いてくるのか、「夫婦や古い位牌や先祖代々などみな場所が決まっていて順番があるって言われた」と言いだし、そのどこかの人に言われたことをきっちり守って置き直している方もいます。 たしかに仏事に関して「わるい」と言われれば、そのことはしないようにするのはよくわかります。しかし「どうわるいのか」の理由がないのです。あるとすれば「ばちが当たる」ということでしょうか。 でもご自分のご先祖がその置き場所のことで、果たして家を守っている子孫にばちを当てるでしょうか。それよりも、ご命日には心込めて新しい花や故人の好物だったものを供え、しずかに般若心経をお唱えし、感謝の気持ちで手を合わせることのほうが大切だと思うのですが・・・。 ...
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